子どもの頃から本の虫だった私にとって、プレゼントの定番と言えば本だった。ことクリスマスとなると、ノアの方舟の絵本や訳の平易な子ども向けの聖書など、キリスト教にまつわる物語ばかりが選ばれていた。我が家はクリスチャンではない。特定の宗教を信仰していない、ごく一般的な日本の家庭である。しかしながら、そうやって毎年当たり前のように聖書の物語に触れていたおかげで、失楽園やイエスの誕生、モーセの十戒といった、有名なエピソードはいつの間にか一通り身についていた。
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大人になって、ひょんなことからクリスチャンの友人ができた。元々は職場の同僚だった彼だが、同い年ということもありたちまち意気投合。宗教観や死生観など、ディープな話題について意見を交わすことも多くなった。勤務地が離れた今も、日常的に連絡を取ることはないものの、いち友人として細々と交流を続けている。
そんな彼にある時、こう聞かれた。
「月々さんって、クリスチャンじゃないのにどうして聖書一通り読んだことあるんですか?」
そうか、世間の大半のノンクリスチャンは、聖書なんて通して読んだことがないのが普通なのか。アンデルセンやグリムの物語と同様な「みんな知ってる海外の昔話」の感覚で聖書を捉えていた私にとっては衝撃だった。
子どもの頃のクリスマスプレゼントが聖書の絵本や児童書だった、そう話すと「すごい!海外みたい!」と彼は感心していた。
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当時、プレゼントを選んでいたのは母だった。母にこのやりとりを伝えてみると「えっ、クリスマスといえば聖書でしょ」とさも当然のように返ってきた。もちろん、母もクリスチャンではない。
母は言った。「子どもにクリスマスの本来の意味を伝えたい」なんて高尚なポリシーがあったわけでもない。ただ、読書家の娘へのクリスマスプレゼントとして、「物語」と「クリスマス」というキーワードから結びついたのが聖書だった。それだけのことだと。
「それに、おもちゃなんてよく分からなかったから、唯一選んであげられたのが本だったのよ」
苦笑いしながら、母はこうも付け加えた。
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正直、毎年のクリスマスプレゼントに不満が一切なかったといえば嘘になる。確かに読書は好きだったし、貰う本はどれも面白かったのだが、時には同級生のように新作のゲームソフトや、当時流行っていたインラインスケートなどが欲しいと思ったこともあった。冬休みが明けた頃、学校でクリスマスプレゼントの話題になると、どことなく居心地の悪さを感じていた。「聖書を貰った」なんて、特に理由があったわけではないが何となく言い出しづらかったのだ。友人に話を振られると「本だよ〜」とだけ言い、あとは適当にはぐらかしていた。
「海外みたい!」
友人の何気ないその一言は、子どもの頃のクリスマスの思い出を丸ごと肯定してくれるものだった。こんな風にポジティブに捉えられたのは初めてだったからだ。その言葉を聞いた時、「この人との縁は一生大事にしたい」と直感的に思った。育った環境、専攻した学問、信じている宗教、自己表現の手段、全てが正反対でありながら、今ではその違いを楽しみつつ哲学的なテーマについて深く語り合える相手である。
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知識や経験はどこで何の役に立つかわからない、とはよく言われることだ。まさか自分がクリスチャンの友人を持ち、宗教や人生について語る日が来るとは。遠回りをしてサンタクロースが届けてくれたのは、唯一無二の友人だったのだ。