私が幼い頃から、母は父のことを「かっこいい」「最高の人」と、いつも自慢していた。

「あの人ね、もうモテてモテて、頭も良くて、小学校でも中学校でも、本当に有名だったのよ」

お酒を飲むと、母の惚気は止まらない。そんな話を聞いている私も「うちのおとんって、そんなにスゴイ人やったんや!」と母の自慢に便乗し、父を尊敬していた。そして「大きくなったら、おとんみたいな人と結婚する!」と本気で思っていた。

ルックスが良かったわけではない。20代後半から薄毛で、30代後半からは小太り気味だった父の見た目は、完全に普通のおじさんだ。しかし私は高校生になっても、父が理想の男性だと思うほど、父のことが好きだった。
しかしその理想は、ある日突然崩れだす。それは、私がちょうど大学3年生へ進級した時期だった。父が突然仕事を辞めてきたのだ。

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私の父は過去にも数回、仕事を辞めている。それについては、私が高校生のときに、1度だけ母の口から父に対する小言を聞いたことがあった。

「あの人ねえ、いつも大きな紙袋を下げて帰ってくるの。で、言うのよ。『仕事やめてきた』って」

つまり父の退職は、毎度毎度、事後報告だった。

しかし母は「なんで辞めたの?!」なんて父を責めたことは1度もなかったそうだ。ニコッと笑って、冷蔵庫から持ってきた瓶ビールの栓を抜き「お疲れさま!じゃあ乾杯しよっか」とグラスを父に渡していたらしい。

父のことが大好きな母は「傷つけたくない」と思い、なじりたい気持ちを抑え込んでいたのだろう。黙って父のグラスにビールを注ぐ母の姿が目に浮かんだ。

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父が勤めていた会社に辞表を出した翌々日くらいに、母は私に「お父さん、仕事辞めてきたって。どうしよう、あなたの学費が払えなくなった」と泣きながら報告してきた。

それに対する私の答えは「いいよ、大学辞めて私も働くから!」である。これが私の最大の親孝行な返答だと思ったのだ。しかし母は「え?それはダメ!あなたには大学を絶対に卒業してほしい!」と真顔で私に言う。今度は私が「え?」となる番だった。

しかし母は、「家計を支えてほしい、でも大学も卒業してほしい」を繰り返すだけだった。

通常ならここで、母が仕事を掛け持ちするなどして家計を支えたことを想像するかもしれない。しかし我が家は違う。母は生まれつき持病があり、当時も専業主婦だった。

体調が悪いのがデフォルトなので、アルバイトといえば近所のマンションにビラを配る仕事、つまり出社する必要のないアルバイトしかできなかった。月に1万5千円ほどの稼ぎだったと記憶している。

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その翌週から、私は父と母に代わって家計を支えた。大学の授業以外の時間は、朝:ラーメン屋のホール、夕方:アパレル企業の販売員、夜:中州のスナックのホステスとして働いた。それでやっと25万円ほど。

そんなに毎日働いて大学にも通っている私を、母はなるべく寝ずに待っていてくれた。しかし無職の父は、いつもいびきをかいて寝ていた。

もちろん父だって、好んで無職になったわけではない。しかし、慣れないホステスの仕事で疲れ切っていた私は「なんで私ばかり働いて、おとんは寝てるんだ」と心のどこかで父を責めていた。そして、母が父に対して文句を言わないことにも腹が立った。さらに母は、私がホステスのアルバイトをしていることを、父に隠していた。娘としては「そこまで父を庇うのか」と呆れるしかなかった。

そのあたりの時期から、私は父を尊敬できなくなっていたのだと思う。結果的に大学は無事卒業でき、私は新卒でアパレル企業に勤めた。それまでの2年間、過酷なバイト生活を送っていたため「社会人って超ラクじゃん!」なんて思いながら、1日15時間ほど働いていた。完全に感覚が麻痺していたのだろう。

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昨年、認知症が進み要介護4の認定を受けた78歳の父は、現在、介護保健施設で暮らしている。父の入所と同時期に、母も認知症と診断された。母は要介護1の認定を受けているが、デイケアサービスを使いながら、自宅で生活している。
たまに「お父さんがいない生活は寂しい」と母から連絡が来る。そこで私は「でもおとんさ、仕事を急に辞めてきたりして、大変だったじゃん」と気を紛らわすような話を持ちかけてみるが、母の「忘れちゃった」の一言で会話が終わる。

認知症にも良い点があるようで、母の記憶は「父と過ごした幸せだった時間」で、ほぼ上書きされているようだった。

先月、自宅で転倒し胸骨にヒビが入った母。入院中にも3日に1回は「早く退院してお父さんに会いに行きたい」と私に連絡が来る。

体は弱い母だが、78歳になっても、夫を愛する気持ちは年々強くなり深くもなっている。それは娘の私が呆れるほどだが、そんな母をうらやましくも思った。