必死にもがき働く社会人の窮屈さの中でも、人生の決定権は自分にある

「僕も就活していた時代ありましたけどねえ、もう今となっては時代が様変わりしたのかなあ。しかし、新卒で入った会社がブラックだったんです」
「ITの会社に新卒で入ったけれど、本当にブラックで死にそうでした。しかも全然華やかじゃないんですよ」
昨年から就活のために職場見学や会社説明会、面接などの試験を渡り歩いた私にとって、特に説明会で人事部の方からため息交じりに語られる社会への嘆きが印象的だった。
新卒で入った会社というのは、どうしても入社前のイメージと違って、自分の理想の社会人像と会社で定められる働き方とでは温度差があるのだろう。初めて社会に出たときは、やはり誰だって失敗するものだとも思い知らされた。
「初めてのこと」というのは失敗して当たり前だと考えた方が、気楽に挑戦できる。そして、もしも社会に出て自分の居場所を見つけられず、肩身の狭い思いを強いられるのだったら、休職だってひとつの立派な選択であると、私は思いたい。
まだ社会人経験がないが、休職が他人事には思えない。仕事をするということは、決して一人では成し遂げられないもの、だと想像がつく。
この一年、私は大学を卒業するために卒業研究に励みながら、その片隅で就活を進めていった。モグラがこそこそと人間に見つからないように土の穴を掘っていくように、本当にヒソヒソと水面下で進めていった。それは今もまだ進行中であるが、この私にとって穴掘りともいえる就活は、進む時は本当に進むものだ。しかし、本番は働きだしてから。さあ、どうなることやら。
まだ決まっていないのに、働きだしていないのに、もうすでに私は休職について真剣に想定している。どこで働くにしても、必ず精神力と体力の維持に限界をきたすと想像している今だからこそ、今社会人として奮闘されている方よりも客観的かつ冷静に考えられるのではないか、と期待のような気持ちが表れてきているのだ。
そして、社会に疲れ切った周囲の大人たちが、休職を視野に入れているのは珍しくないことだ。どちらかというと、プライベートにおける人生の節目に悩まされがちであり、仕事など手につかない、という方もいる。
結婚して夫婦共働きであったが、子供を授かり産休に入った。しかし、産休・育休から復帰しようとした矢先、自分の代わりとして若手が働いていていた。自分がこのタイミングで戻ったら、この若い新人さんの居場所がなくなってしまうと思うと、戻りづらい。など。そして、50代に差し掛かると、親の介護に追われながら仕事にも邁進しないといけない。これも老体にムチを打ちながら。
こうした、学生生活では考えもしなかった社会人生活の窮屈さ。
学生の頃は留学や心の病を治すことを目的に休学を考えていた人も多いが、社会人となると自分の人生ばかりを考えにくくなる。パートナーや恋人、家族。決して放ってはおけない大事な人のため、自分の生活のため、色んな先のことを想定して必死にもがきながら働かなくてはいけない。
だからこそ、休職という選択に甘えることが恥ずかしいことではないと私は思う。むしろ、自分の人生に可能性を感じられている証でもある。
もちろん仕事で手一杯になってしまうのが社会人にとっての試練であるかもしれないが、一度立ち止まるということは勇気のいることでもある。休職という選択が、社会人として情けないと感じる人がいたとしたら、「今って令和ですよね?」と問いかけてみたい。そうじゃないと、世の中は柔軟になっていかないし、少子高齢化に歯止めがかからないはずだ。
時に責任逃れしたっていい。お金が底をつきたら、また真新しい場所で働いてみても良い。自分の人生は自分のもの。休職も就職活動も、決定権はいつの時代も自分に委ねられているのだから。
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